強く身体を引き寄せられ、ヴィノは自分を抱える相手を見上げた。
片腕をしっかりと腰に回されての熱烈な抱擁。そんな風にも見える。この場から二人だけを切り取ったとすれば。
「おまえの得意技だもんな? 人の足引っ張るのは」
しかし実態はそんなに甘ったるいものではない。
クロコダイルからの皮肉たっぷりの文句に、事態の原因であるヴィノは思わず逃げ腰になる。しかしいまの彼には身動ぎが精一杯だ。逃れる代わりに二人の間を繋いだ手錠がじゃらり、と重く不穏な音を立てた。当然、対能力者御用達の海楼石製のものだ。
「海楼石たァ、随分懐かしいじゃねえか」
「う”」
追い打ちは的確にウィークポイントを突く。何事にも楽観的なヴィノでも、あの大監獄でのことを思い出すと胃のあたりをずうんとした重みが襲った。
悲壮に眉を下げる彼をクロコダイルの冷えた目が見下ろす。いつだって態度だけはしおらしいのだ。つまり、この男には何を言っても無駄だった。
であれば、せめて少しくらいの嫌味は許されるべきだろう。実際、腕の中で無抵抗に小さくなるヴィノを見ているといくらかクロコダイルの溜飲は下がった。
突如始まった市街戦でクロコダイル(とそのオマケ)を封じることに成功した海兵たちの末路は散々なものだった。
ろくな戦力にもならず、クロコダイルの周りをうろうろするだけのヴィノがいたことは敵方にとって大きなチャンスだ。残念ながらその幸運も、憐れ手錠をかけるところまでであったが。能力を封じたとて、その死屍累々のさまは巨大な砂嵐が通過したかの如くである。
追われる身の煩わしさをここ最近のクロコダイルは頻繁に思い出している。かつて七武海の肩書きを有していたときには無縁だったものだ。
べしょ泣き寸前のヴィノを片腕で抱え直し、彼は思考する。二人の体格差では引き擦っていくよりも荷物扱いのほうがマシだった。
いまの位置から、彼らが船舶している港まではまだだいぶ距離がある。そして、仮にも相手は「新世界」の海軍だ。この間(ま)が単なる増援の遅れとは考えにくかった。まんまと能力者二人の動きを封じて、むしろあちらの作戦は順当に進められていると判断するべきだろう。さほど大きくもない港街だ。包囲網を敷いてしまえば無闇に追手を投入するよりも確実性は増す。
──面倒くせぇな。
それがクロコダイルの至った結論だった。
本来彼の能力は多勢をものともしない。だからこそ、それを失い一人一人相手せざるを得ない状況は面倒としか言いようがなく、なんとしても避けたい事態だった。
「どうかしたの?」
地平の先に目を凝らしたままなかなか動かないクロコダイルを、ヴィノは遠慮がちな顔で見上げる。定石はどう考えてもすぐにこの場を離れることだ。彼は不思議に小首を傾げる。
「もしかしておにいさんが重たいかな? 二人三脚とか試してみる?」
「まあ、待て。それよりも良い考えがある」
「う、うん」
彼の提案は軽く宥めすかされた。しかし妙案があるというならそれに越したことはないだろう。ヴィノの理論よりクロコダイルの方が堅実であることは明らかで、たとえ世界に終わりが来ようがそれが覆ることはない。なのにヴィノの胸に素直に喜ぶ気が沸かないのは何故だろう。
「能力も使えるようになるし、拘束からも解放される名案だ」
お互いの能力さえ戻ればこの程度の窮地はなんてことない。クロコダイルの言葉が確かなら、まさに九死に一生の一手だ。が、それを紡ぐ彼の表情は救い主と形容するには程遠い。いつもの大悪人面を前にヴィノは固唾を飲む。なにせ酷薄に歪んだ唇はさきほど意地悪を述べたときの形のままだ。そう分かっていたとしても彼にできるのは次の言葉を待つことのみだが。
「手首切り落としゃ良い」
「そうだよね!!?」
彼の提案はごくシンプルなものだった。至近距離であがった悲鳴に、クロコダイルはやや煩わしげに顔を歪める。
海楼石の頑丈さはヴィノもよく知るところだ。だから、その考えは彼にも思いつく。実行に移すかは別の話というだけで。
「安心しろ。上手く切ってやる」
「あっ、有無を言わせない感じだ……!?」
狼狽えるヴィノに向けられるクロコダイルの瞳は生暖かい。その仮初めの優しさが、余計にこれから起こることの凄惨さを予期させた。
ここで起こり得る最悪の展開は、二人仲良く成す術なく命を落とすことである。能力もなく、機動力も著しく落ちた状態で切り抜けられるほどここらの海軍は甘くない。片手の欠損くらいは勘定できる犠牲のうちなのだ。クロコダイルのことだ、寧ろあらゆる考慮を重ねたうえでの最適解がこれなのだろう。
確かに、このあと敵勢力の中を突っ切ることを考えても負傷するのはヴィノであるべきだ。能力さえ復活すればヴィノは退路を作れるし、クロコダイルも大人一人分の重荷から解放される。能力なしのヴィノには戦う術がほとんどないというのもある。
周回遅れで考えるほど、どんどん逃れようのない論理で固められていき、ヴィノは困り果てる。そんな彼の焦燥を横目でしっかりと認めながら、クロコダイルは鉤爪に手をかけた。金色の外装をゆっくりと外していくと中から鋭利な刃物が現れる。
「わー、その中ってそんなふうになってたんだねえ……」
ヴィノの力ない感嘆が漏れる。あまりのことに、脳がどうでもいいことにリソースを使いだしたようだ。
クロコダイルからしても、こんなことに同意を得られるとは最初から考えていない。反応がどうあれ、彼は自分の考えを実行に移すつもりだ。
ヴィノの身はなお縋りつくようにクロコダイルへ寄せられている。この頼りない手首を無理に害したとき、果たしてこいつはどう思うだろうか。ヴィノを待つ数秒の間、不意にクロコダイルはそんなことを考えた。
仕方がないと諦めるだろうか。まさか真っ当に怯えたり、恨んだりするというのか。こんな緩みきった男でも。
「……うん、分かったよ」
与えられた猶予ぶん頭を回してからの彼の言葉はあっさりしたものだった。
想像とは異なる返答に、今度はクロコダイルが意表を突かれることになる。しかし、物分かりの良い言葉は却って彼の胸に疑心が抱かせる。口ではどうとだって言えるからだ。
「分かるよ、二人で無事に切り抜けるためだっていうのも。それに、」
呟くように言って、ヴィノは視線を落とす。
その目線の先はいままさに自分を害さんとする鋭い切先に、つまるところクロコダイルの失われた右手に注がれていた。
「それに、きみにこの上っていうのは可哀想だろう? それならやっぱりおにいさんが」
「か、」
カワイソウ、だと。あまりの暴言にクロコダイルは言葉も出なかった。
彼の言い分はつまり、ただでさえ片手のない男に対する憐れみだった。温情として与えたつもりの猶予の時間をたっぷり使って彼はクロコダイルへ同情の気持ちを寄せていたのである。
生き物であれば通常持ち得る「我が身可愛さ」というのが、ヴィノにはどうにも欠けていた。だがそれは自分の価値を他より低く見積もっているわけではない。おそらく、何に対してもそうなのだ。抱えるものを持たないことが彼の身軽な生き方を成り立たせている。その場の簡単な快楽だけの、おめでたい生き物なのである。
──何にせよ、随分と煽ってくれる。
「もういい、黙ってろ」
苛立つ低音がいよいよ時間切れであることを告げた。いつまでもまごついていられないことはヴィノだって分かっている。それでも彼の身体は、これから襲うであろう痛覚を身構えてしまう。
……しかしそこへ想定していた痛みは訪れなかった。代わりに飛び込んできた目の前の光景に彼は息を呑む。
「な、なんで……」
鋭利なナイフが振り下ろされた先は、クロコダイル自身だった。
呆気に取られるヴィノの眼前で刃が深く突き立てられると、裂かれた傷口からどっと何か溢れ出す。血ではない。流砂だ。
骨まで断つ勢いで裂かれた彼の肉体は、切り落とされる直前の僅かな一瞬で砂へと転じ、結合してもとの形に戻っていく。確かに、海楼石が身体から離れさえすれば能力はすぐにでも使えるようにはなる。僅かでも躊躇えば成せない荒技だ。現に、渇いた砂になる前の生身が断たれる鈍い音をヴィノの耳は確かに聞いていた。
そうこうしている間に重い鎖はクロコダイルの体を擦り抜けきった。見事、縄抜けマジック大成功である。集まった海兵たちが信じ難いものを目撃したとどよめき合う。──勝負は決した。
その後の大立ち回りについてはここでは割愛とする。二人はひとつの黒い影となって、無事に船まで降り立った。
船番をしていたダズを甲板に見つけると、クロコダイルはそちらへヴィノを適当に放り投げる。細腕にはまだ手錠が重々しくぶら下がったままだ。ダズの手刀で切断してもらってようやく彼の身は軽くなった。
「こいつどうかしちまったんですか」
奇異の目を浴びせられ、ヴィノはやっと我に返る。手錠が外され調子を取り戻したというのもあるだろう。そしてそのままの勢いに任せてクロコダイルのほうへと身体を反転させた。
「なんであんなことするの!」
溢れだした感情をただぶつけただけの彼には、自分の発言が相手の自尊心を焚きつけたということがわからない。でなければあれだけの荒事、クロコダイルだって進んでするものか。
自身の裁量によりクロコダイルの右手は見事に繋がったままだった。初めのひと太刀だけは避けようがないため辛うじて人らしく血を流してはいたが、想定内の負傷を彼はとくに気に留めない。
「なんだ。怒ってんのか」
「えっ?」
不意をつかれて、ヴィノは心底意外そうに声をあげた。
何せ、彼にはいままで誰かに対して怒ったような経験がほとんどなかった。だからクロコダイルからの指摘に咄嗟の否定をすることもできずに、ただ瞳を揺らがせるばかりだ。
「怒ってなんて、ない……と思うけど……。とにかく、すごく吃驚したんだから、もうああいうことはしないで、ね?」
「よし、さっさと出航するぞ」
「聞いて!?」
珍しい反応には違いなくとも、だからといってクロコダイルがそのその怒りを受けとめる義理はない。だがまあ、向けられた憐憫さえどこかへ飛んでいってしまえば、彼は概ね満足だった。
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