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 交わすキスにはいつも儀礼的な空気が纏っていた。
 傾ける顔の角度や呼吸のタイミングを、別にこれと決めたわけでもないのに二人は熟知していた。定められたことのように交わし合って、すんなり唇は離れていく。

 昂ぶりの波が収まったことを悟ると、微睡みもそこそこにナナシは煙草の火をつける。いつもの仕草。相馬にはすでに嗅ぎ慣れたフレーバーが香る。
 さきほどまでのあえかな呼吸も煙と混じり合ってやがて感じ取ることもできなくなり、数秒も経てばそこには平温のナナシがいるのみだった。彼の身体に散見される情交の痕だけはしばらくは残り続けるはずで、それが二人の情事を何よりはっきりと証明していた。

「やっぱりあんたは組を離れるべきだ」

 残された自身の欲の証を眺めているうちに、自然と相馬は口を開いていた。ナナシの顔が辟易とした様子で顰められる。それは少なくとも、ついさっきまで身体を差し出していた相手へ向ける表情ではない。

「またその話か」

──いまの東城会は泥船だ。
 それは、相馬がこれまでに何度か繰り返してきた問答だった。東城会が組織としての形を保っていられるのもいよいよで、つまるところ相馬のここでの潜入も潮時なのだった。当然ナナシとの関係も、もう必要なものではなくなる。

「先がないことくらい、あんたにも分かるでしょう」

 誘い文句は組への不忠義を取り繕おうとさえしていない。本来命取りにもなりかねない発言は、それだけ東城会が力を失っている裏付けでもあった。

 相馬の次の身の振り方はすでに決められている。なにもかも思い通りというわけにいかないのはいかなる組織であれ同じだが、後ろ盾としての大きさでは比べものにならない。長年の潜入で得た実績からか相馬にはある程度の決定権が与えられていた。それこそ、利用価値のある人材を引き抜くくらいは造作もない。
 ……これから始める新事業にナナシを加えるのだって彼の一存で決められるのだ。極道のしがらみからナナシを解放して、今度は自分の手で直接彼の手綱を握る。そんな夢想は相馬にこの上ない昏い喜びを齎した。

「抜けるなら止めやしねえよ……。ただ、俺は残る」

 だがそんな思惑に反して、返された言葉は彼を突き放すものだった。あっけなく、簡単に言ってのける。それは自分との関係でさえも手放して構わないのだと告げていた。

 馬鹿げている、相馬は静かに落胆した。彼の頭脳はナナシがいま組織を抜ける利点を何通りだって弾き出せる。尤もらしい理屈であれば、いくらでも。

 副流煙越しの両目はいつのまにか相馬に向けられていた。心のうちを容易には読ませない、彼の黒い瞳である。
 そんなものただの意地だ、と説き伏せようとしたところであっけらかんとした肯定が返ってくるだけだろう。相手は矜持に捕らわれている、極道なのだから。

 

 

 その日を境に二人は袂を分かった。
 あの夜、相馬の言葉に聞く耳を持たなかった男はいまだ神室町でのうのうと生きている。そのうえ、こんな場所で。

 初めて足を踏み入れた店内を相馬はぐるりと見渡した。レジ前に置かれた小さな時計は午後11時あたりを指し示している。 
 喫茶店としては遅い時刻でも立地からか需要はあるらしい。閉店時間を定める必要がないのは個人店の特権であろう。店主の方針でこの店は一般的な時間の観念からは外れた位置にあった。

「いらっしゃいませ」

 店主の声は低く、店内によく馴染んだ。客の数人が入り口のほうを窺い見る。すでにその顔を知っている者もいたのだろう、相馬和樹は一度目にすれば記憶に残る顔立ちだ。彼の上等な革靴が数回床を叩くころには、まばらに各々の時間を過ごしていた客たちは蜘蛛の子を散らすように店を後にしていった。
 その場には相馬と店主であるナナシだけが残される。とんだ営業妨害に渋い顔を見せるナナシとは対照的に、相馬は幾分か広くなった店内を悠々と闊歩しカウンター席へと腰かけた。

「随分素っ気ないんですね」

 然程感情の含まれていない声で彼は言った。
 目だけはつぶさに観察するようにはっきりとナナシを捉えている。

「それに、あまり驚いてもいない」

 三年だ。三年振りの再会。
 同じ町にいるのだから、意図せずにはち会ったとておかしいことではない。しかしこの三年間、相馬はそんな偶然を装うことさえしなかった。だからこそ今日この日に赴いたのには理由がある。ナナシの落ち着き払った目を前にして相馬は早々に観念することにした。

「盗聴器、まさか気付かれるとは思いませんでした。証拠は残していないつもりでしたが」

 あまりにあっさりとした自白だった。悪びれる気がないのは明らかで、相馬にとっては本題に向かうための取っ掛かりに過ぎない。どうせ他に聞いている者もいないのだから憚る必要もなかった。

 海藤らからの忠告で、RKと相馬の関連を知ったナナシはすぐに店内を探るよう探偵たちに依頼した。彼らの同業者で機械関係に強いという九十九の駆使する探知機の類は、素人にはわけのわからない代物だったが、見事正確に仕込まれた機器を探り当てた。
 一方で、発見された盗聴器にはろくな証拠が残されていなかった。九十九曰く、凡庸な品質の型で、一般人でも手が出やすく流通が多い分犯人の特定は困難であると。

 相手はそつがなく、周到だ。そのやり口に覚えがあったからこそ、今夜相馬が現れたのはナナシにとって必然のものだった。
 RKを使えば直接訪れずとも盗聴器を仕込むくらいは容易だろう。日々不特定多数の人間が行き来する場所であればなおのこと。

「相変わらずこそこそ嗅ぎまわるのは得意みたいだな」

 言ってしまってから、これは失言だったとナナシは直感した。
 実害を被った分の苦言くらいは許されて然るべきだ。今回の違法行為が相馬によるものだと状況から明らかでも、客観的に証明できない以上はどこに訴えることもできないのだから。
 だがどうあれ、過去を思わせるような言い方をすべきではなかった。もうとうに切れた関係なのだ。少なくともナナシはそう認識している。しかし相馬の酷薄な表情にいままでとは別の色が灯るのを見てしまっては踏み込み方を誤ったと認めざるを得なかった。

「あんたと海藤の仲を知らないわけじゃなかった。今回のことは完全に失態だよ。こうしてまんまと引き摺りだされた」

 それまで淡々としていたはずの彼の口調はいつの間にかがらりと変容していた。じっとりと、やや熱に浮かされたように一方的な言い分を語り始める。
 無論、ナナシには彼を誘き寄せたような覚えはない。相馬が今夜姿を見せたのは想定しなかった手段で自身の画策が暴かれたことに、単にプライドが刺激されたからであろう。別に分かりたくもないが、悲しいかなナナシにはそれが分かってしまう。

「今さら何の用があるんだ」
「今さら、ね」

 相槌のように返して、相馬はひとつ息を吐いた。そしてやっとナナシから外した視線で、改めて店内を見渡した。

「……煙草、やめたんですね」

 ふと、攻勢の気配が止んだ。口に出すにはあまりに脈絡のない呟き。確かに店内には分煙スペースどころか灰皿のひとつもなかった。カウンターの中にさえ喫煙の痕跡はなく、それを目敏く観察していた彼はなおも言い募る。

「あれだけ重度のヘビースモーカーだったひとが。どうして? 店のためですか」

 続く言葉には今度は明確に鋭利さが込められていた。
 何を突然、とナナシは内心で悪態づく。なにせ相馬が指摘しているのはもう三年も前の話なのだ。
 確かにあの頃の喫煙量はなかなかのものだったと彼にも自覚はある。すぐ満たされる灰皿を見るにつけ、相馬がそれを窘めたのは一度や二度ではない。だが、それだけ依存していたわりにナナシは然程苦労もなく煙草を辞めていた。
 相馬は詰るように疑問を投げかけたきり、あとはだんまりを貫いている。何かしらの解答を示さない限り許さないとでも言うように。

「環境が変わったから。別に、それだけだ」

 その場で思いつくのはそれくらいのものだった。だが自分自身の吐いた言葉に、ナナシは大いに納得した。所詮その程度のものだったというだけ。そこに探るべき真実はない。

 お望み通り答えを示してやったナナシの肩を、カウンター越しに伸びた腕が突然掴んだ。
──性急な動き。そんな無体を犯すのはこの場で一人しかいない。いつの間にか身を乗り出していた相馬が、吐かれた言葉ごと喰らいつくかのように顔を寄せていた。
 崩しかけたバランスを持ち堪えたナナシの視界の端でカトラリー入れが転げ落ちた。ガシャン、とやけに大袈裟な音が立つ。

──あの中に割れるようなものは入れてなかったはずだが……。
 咄嗟に浮かんだ思考は唇を割って入るものの感触によって阻まれた。

 油断しきった咥内に舌を差し挿れられてようやく、ナナシは緩慢な瞳を目の前の男へ向ける。近すぎる距離では相手の表情までは確認することはできない。許可なく強引に押しつけられたものであっても勝手知ったるのはお互い様だ。侵入してきた肉が自分の舌を絡め取っていくのをナナシは黙って受け入れる。
 ただ、背の高い相手に合わせるため、可動域の限界まで上げさせられた首が少々苦しい。相手が拒絶しないのを良いことに相馬がさらなる侵入を試みたところで、ナナシはその胸ぐらを掴み、身体ごと引き剝がした。

「っ、」

 舌の上に不快な鉄の味が広がる。離される寸前、歯を立てた張本人は対岸で挑発的な笑みを浮かべた。

「本当に、もう少しも吸ってないようですね」

 そう言って、見せつけるように舌舐めずりをしてみせる。喫煙者とそうでない者とではキスの味は変わるというが、まさかそんなことのために。ナナシは信じ難い気持ちで相手を睨む。

 先ほどの性急さはどこへやら、相馬は一転して気取った態度を取り戻す。よれたシャツの胸元を直す姿は些か滑稽ではあるものの、それさえナナシが見せた抵抗の結果と思えば彼にとっては格別のものだった。

「今度はしっかり客として来ますよ」

 それだけを言い捨てて闖入者は去っていく。やりたいだけやって、面の皮の厚いことである。

(……クソ、)

 血の味が滲む。久しく感じていない苛立ち。この不快感を慰めるにはカフェインでは到底足りないだろう、とナナシは思った。