東はサングラス越しに自らの目を疑った。
神室町にだって真っ当な時間には健全に陽が昇る。諸々の成り行きを経てゲームセンター『シャルル』の店長を務める彼は、定期的に開催される町内会への出席にはいつも身を正す心持ちで臨んでいた。
カタギさん達の会合に粗相があってはいけないと、いつもよりぴっちりと髪を固めて手土産持参で挑んだ矢先、その町内会長から直々に、ある男の紹介を受けたのだった。
「ナナシさん?」
「ああ。確か、海藤の」
「東です! ご無沙汰してます!!」
その顔を目にした途端、東の神経に強烈なフラッシュバックが生じた。魂にまで染みついた下端仕草で直角に頭を下げる。それを受けて、ナナシはやや気まずそうに顔を引き攣らせた。
派手なスーツスタイルを貫いている東と違って、ナナシの服装は簡素なものだった。見た目はどう見たって気質(カタギ)の紳士だ。もともと彼は体格のあるほうではなく、東と比べても身長はやや劣る。それでもその肉体が数々の地獄を潜り抜けてきたことは確かだった。
東城会無き後、東のように働き口がある者は恵まれているほうだ。あれだけの規模を誇った組織の散り散りになった行く末は誰もわからない。
ただ、結局のところナナシもこの町から離れられなかったということだろう。境遇を察するしかない東にもそれだけは理解できた。
ちなみに、いつまでも直角の姿勢をキープし続ける東に、町内会の皆さんはというと戸惑いどころか納得の表情だ。一般市民といえど、神室町に店を構えるだけの胆力が彼らには備わっているのだ。実にのどかな昼下がりがそこにあった。
「よう、ナナシ!」
ところ変わって、ある居酒屋チェーン。
急な誘いに二つ返事で応じた海藤が快活な声とともに現れた。連絡をつけたのは東だ。旧知といえど、ナナシは彼の連絡先までは知らない。
こう見えて、ナナシと彼は同い年である。組も違えばタイプも異なるものの、お互い中卒で盃を受けたという境遇は同じだった。以来、鉢合わせれば交流を重ねてきた。
とくに若いころは拳を交えたのも一度や二度ではない。ナナシが東を指して「松金」の名ではなく海藤の名を出したのは、二人のそんな浅からぬ仲のためだった。
「驚いたな、五体満足で指もばっちり揃ってるじゃねえか!」
海藤は大袈裟に歓声をあげながらナナシの周りを無遠慮に見回すと、締めくくりとばかりに彼の背を手のひらでばんばんと叩いた。ぶ厚い掌から繰り出されるそれは明らかにスキンシップの域を出ている。しかし対するナナシも少々迷惑そうにしながらよろける素振りもないので、海藤もその辺りは人を選んでのことなのだろう。おそらくは。
「ひどい騒ぎだったんだ、上がそんなことに構ってる余裕もなかった」
一足早く組を抜けていた海藤には、その後の東城会での騒動は知る由もない。簡単に言ってしまえば会社の倒産とともに大量のリストラを出したようなものだ。まあこれはほんの例えで、実際は帝国の崩壊にも近いものがあったが、とにかくそんな中でナナシ一人の処遇は捨て置かれた。
組そのものが解体されてはけじめも何もあったものではないし、カタギの世界では指の十本や百本集まったところで何の役にも立たない。そんな経緯で幸運にも健在のままの指でジョッキを引っ掛け、彼は冷えたビールを煽った。安いチェーン店で元極道の三人が膝を突き合わせている。それもいまの神室町ではそう珍しい光景ではなかった。
「しかしお前が探偵ね」
挨拶代わりに手渡されたばかりの名刺を眺め、ナナシはぼやいた。
空白がやや目立つシンプルな白い紙には「八神探偵事務所」という文字が鎮座している。八神というのは確か松金の寵児だったはずだ。極道に育てられ、弁護士にまでなった龍の子。海藤にとってはもう一人の弟分のような存在と聞いている。
「これでも神室町じゃそこそこ名が知れてんだぜ?」
自慢げな海藤の傍らでは東がなにやらもの言いたげな表情を見せた。平日の昼間にこうしてのこのこやって来るくらいだから実態は知れている。
海藤は用心棒などには申し分ないだろうが、とてもじゃないが繊細な仕事を任せたいとはナナシにだって思えない。その辺りは所長である八神のほうが上手くやっているのかもしれないが。
「お前こそ町内会ってことは何か店でもやるつもりなのか?」
「ん? 俺は喫茶店」
「極道が接客業かよ!」
問われるままに答えを返すと海藤が噴飯の勢いで吠えた。意外性でいえば、東も含めてこの場の誰しも大差はないだろうに。
だが、その反応はナナシにとって初めてのものでもない。
骨を埋めるつもりだった組織が解体され、身の振り方を考えたとき。彼に残った欲求は「うまい珈琲が飲みたい」というものだった。
それまで特段珈琲にこだわりがあったわけでもないのに、憑き物が落ちたように突然、そう思ったのである。
幸い、管理下にあった土地の中にもぬけの殻となっていた場所があったので、彼はそれまで持っていたマンションや車を手放した資金で、そこを好きに改装した。
多くの若衆には宛てがなく、まともに働けるだけの身分もない。ナナシだってその点に関しては同じだ。……いや、たった一人、東城会解体後のナナシの身の上を話題にした男はいた。だがあまりに論外なので、彼は早々に頭の中からその人物を追い出す。
ともかく、だ。働き口にどうかと声を掛けたナナシに、元極道たちの反応は冷ややかだった。要はカタギに頭を下げて金稼ぎをしろというのだから受け入れられるほうが稀だ。それでも何人かはナナシの下で慣れない仕事に従事してくれているが。
「まあ、元気にやってんなら良いんだ。悪かったよ。ほら呑め呑め」
反射的に素直な反応を示しただけで、海藤に悪意があったわけではない。それでも先ほどのリアクションを失言と判断したのか、彼はばつが悪そうに安酒の入った徳利を傾けた。
「元気に、って」
大柄な男からの酌を受け入れつつ、ナナシの声には不服が混じる。面倒見の良さこそが海藤の兄貴分である所以だ。しかしいい歳のナナシとしてはさきほどの噴飯よりよほど気にかかる。お前は親かなにかかよ、と。
「凄むなよ。客相手にそれやってねえだろうな?」
「してねえよ。ほとんど」
「ええ……」
二人のやり取りを静観していた東から正直な声が漏れた。当然誰かれ構わず殴ったりしているわけではないが、そうもいかない場面というのがこの街では、ある。しかし店の評判に関わる誤解は解かなければ。そう思ってナナシは補足的に言葉を続けた。
「行儀のなってないガキ相手に話(ナシ)つけただけだ。それっきり、来てもない」
明らかに暴力を伴うニュアンスでも、残念ながら神室町では日常の範疇だ。店内での迷惑行為を黙って見過ごすわけにもいかなかった。だがそんなナナシの思惑に反して、それを聞いた他の二人はやけに真面目な顔になって黙り込む。
「……なんだよ」
ナナシが促すと、東が説明役を買って出た。いまの話に彼らは思い当たるところがあったのだ。
「いや……。近頃、ここらで看板出してる店にちょっかいかけてくる連中がいるんです。……RKとかって名乗ってる、半グレ集団の」
──RK。
ナナシには聞き覚えのない名だ。店にやってきたのはどう見たって素人のガキで、名乗り上げなんて……、もしかしたらしていたのかもしれないが、その時の彼は聞いてやる気もなかった。
東城会がなくなったことによるひとつの弊害だ。日本一の繁華街を長年収めていた勢力が席を空け、この近辺の秩序はより混迷を極めている。いまや、いち市民であるナナシにとっても迷惑極まりないことだった。
「来たのは本当にその一回きりか?」
今度は海藤がやや神妙に口を開く。何か引っかかることがあるようで、奥歯に物でも挟まったような顔つきだ。
「そいつら俺たちにも噛みついてきたばかりでよ。半グレって言っても、東城会のあぶれ者も吸収して大きくなってる。それで構成員を細かくランク付けして管理してやがるんだ。お前を相手に下ッ端のガキなんか使うかな、と思ってよ。あいつが」
「あいつ?」
急かされてなお、海藤はその先を言い淀む。海藤も東も揃ってお節介焼きだ。だからこそ、そんな男が言葉を選んでいるのには嫌な予感が立ち込める。数秒ののち、海藤は少し唸ってから腹を決めたようで再び口を開いた。
「相馬だよ。RKのリーダー」
「……。」
飛び出してきた名前で、ナナシには即座に全ての合点がいった。
……ああ、大いに覚えのある名だとも。苦々しくとも自嘲のような気持ちが彼の胸に沸く。
「海藤、悪いが早速仕事を頼めるか。出来ればいまから」
「お、おう!? 急だな!?」
言うや否や手元の酒をすべて飲み干すと、ナナシは速やかに席を立った。
まだまだ宵の口どころか、陽も傾いていない。海藤は酒の席を前に名残惜しげな様子を見せたが、仕事と聞けば断る気はないらしい。
なにより、最近は小遣い稼ぎ程度の仕事ばかりこなしている所長へはいい手土産になるだろう。
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