※すべてにおいてファンタジー
奇妙な形だな、と思った。
ベッドで男を押し倒している。こんな状況であっても己が冷静さを保てていることに、相馬は胸の内で安堵していた。
シャツのあわいを暴いてやれば、弛んだ襟から覗いた刺青が彼の目を引く。そこにあるのが極彩色の派手な紋であったなら、組み敷いた相手の生業を考えればかえってなんの意外性もない。だが彼の目の前に現れたのはやくざ特有の物々しい紋ではなく、カタギがファッションで彫るような他愛のないものだった。
「あんたほどの人が、ずいぶん可愛いのを刺れてますね」
つい相馬からは揶揄するような声が出る。よくよく見ればそれは植物を模しているようだ。うなじに絡みつく蔦のようなデザイン。意外性と、辺りの暗さのために一見して分からなかったのである。
存在を確かめるように何度か模様をなぞると、前戯とは明らかに違う動きにようやくその持ち主が振り返った。黒い瞳が相馬を捉える。
「最近はそんなに気合入ったやつも珍しいよ」
だから彫師は商売あがったりだ、と。年下の男からの指摘が気恥ずかしかったのか、男――ナナシは濁すような物言いで言った。実際、彼にとっては一時(いっとき)のお遊びで刺れたような、若気の至りによる名残かもしれない。相馬が気に留めるまで意識にさえなかったようだから。
信じ難い無頓着ではあるものの、それは信憑性のある推察だった。相馬は背骨からうなじへと纏わりつく紋様へ飽きずに視線を落とす。持ち主の目に映ることはまず無い場所。たとえ鏡越しであったとしても憎らしく身を隠すことだろう。だからいまのいままで本人にさえ存在を忘れられていた。――ならば、一体これは誰のためのものだ。
瞬間、相馬の胸に初めてある衝動がうまれた。どうせいまからするのは獣の行為だ。彼は付き動かされるがまま、肌を這う紋様へ歯を突き立てた。
ナナシが息を詰めるのを感じても構わず力を込めると、やがて食い破られた皮膚に血が滲む。
知らぬ間に潜み入り、宿主を絡め取る。まるで。
「蛇かと思いました」
そうだ。これはまるで蛇のように見える。
強く残した咬み痕を、今度は労わるような手つきで相馬は触れた。そんな戯れのような触れ方が珍しく、ナナシは歪に目を眇めた。
「はは、共喰いかよ」
その静かな笑い声を相馬の耳はいつまでも拾っていた。
……
ナナシの暴力は淡々と行われる。打ち込む拳は正確で単純。まともなコミュニケーションを知らないやくざものにも分かるように、複雑さや理不尽がない。良くも悪くも拳に感情を肩代わりさせない男。彼の無感動な黒い瞳を相馬はそのように評価していた。
そんな男に接触しようと考えたのは大した根拠もない思いつきに因る。勘や本能と言い換えてもいい。
当時の相馬はいま以上に『情報』に飢えていた。より内部の情報を得るには人に取り入るのが早い。ナナシは歳こそ30代半ば程だが古株で、組の内部ではそれなりに存在感がある。それでいて他の構成員とは敢えて一線を引くような面もあった。そういった性質も含め、仕事の協力者として打って付けと踏んだのである。
好機はすぐにやってきた。反社会的組織としては模範的な取り立ての直後、ひと足早く現場を立ち去る背を目敏く見つけると、相馬はそっと彼の後を追う。組織からは浮いている者同士、近づくことは容易だった。
自分に続くようにして部屋へ入ってきた相馬を、パイプ椅子に深く腰掛けた位置からナナシが一瞥する。二人のほかには無人の控え室。
ここで二人きりになることなど勿論ナナシが意図したことではない。それを咎めるどころか、彼は然して興味も滲ませず、点けたばかりなのだろう煙草の一服目を吹かす。
ろくに換気能力のない手狭な部屋はそれだけで煙が充満し、思わず相馬は整った顔の造形を歪めた。
「出てなくていいのか」
目も合わさずに、低い声が言った。要領を得ない言葉であっても相馬はとくに訊き返さなかった。自分の悪癖のことを指しているであろうことはすぐに分かったからだ。
相馬の潔癖はある種、周知のことである。汚れ仕事が10割の、社会の暗部そのものが潔癖とは笑い草も良いところだった。繊細さと非力さの区別ができない人間がここには多い。小綺麗な外見と相まって相馬のこの体質は悪目立ちし、幾度となく制裁の対象となってきた。当然、ナナシもそれを知っている。
「煙草の煙が駄目、というわけではないので」
折角の機会を、追い出されでもしたら困る。相馬ははっきりとした口調で言った。特段呼吸器に問題があるわけではない。彼のアレルギーまがいの症状はおおよそ心因性のものだった。
「ふうん」
自分の投げかけた質問だろうに返事はやはり素っ気無い。彼の言葉は吐かれた煙に混ざって消えていく。ナナシにとっては相馬との会話よりも灰皿を埋めることのほうがよほど重要のようだ。そもそも、こんな小部屋は明らかに煙草を吸っていいような環境ではないのだが。
「時間潰したいんなら付き合え」
絶え間なくあがる煙の中から彼が言った。やはりろくに視線を寄越さず、煙草の箱だけが相馬の前に差し出される。
こうなっては立場が下である相馬には拒否の選択肢はないに等しい。無言の内に存在する圧力に倣い、彼は丁重に煙草を一本受け取った。次いでナナシは懐からジッポライターを取り出すとそれも惜しみなく棒立ちの相馬へ投げた。
通例でいえば子分は兄貴分が煙草を出す素振りをした時点で言われずとも火を差し出すものである。そういったお決まりを守ることでやくざ社会の秩序は形成されている。しがらみを避けたければ人目のない場所までわざわざ足を延ばさなければならない。ちょうどいまのナナシのように。
拝借したライターを返してしまえばそれきり二人の会話は終了する。さてどうしたものか。苦い味を喫みながらどこか暢気に一考して、相馬は浮かんだ考えを実行することにした。
「ナナシさん、好きです」
それまでひたすら煙の排出に精を出していた顔が、相馬のほうへ向いた。
同時に、その眉間には深い深い皺が刻まれる。偽りのない表情からはこちらへの疑心がありありと伝わってくる。それはそうだろう。妄言を宣った本人である相馬でさえそう思う。だが、距離を詰めたいのであればこの方法が最短で、手っ取り早い。
反射的に拳が飛んでこなかったのは単なる幸運に他ならなかった。その好機を見逃さない相馬はさらに一歩攻勢をかける。
「差しあたって、あんたのことを深く知りたいと思っているんですが、ご一考いただけますか?」
言葉はするすると紡がれる。手慣れたものだ。耳触りの良い言葉は相馬の持つ武器であり、当然、彼はそれを駆使することについては自覚的だった。
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