いずれ万病に効く

 ノック音に呼びつけられて、怠い身体を起こす。

 不調に気が付いたのは昨日からのことだ。日中、どことなくあった違和感は日が落ちるにつれずっしりと圧しかかっていった。頭が冴えず、思考にも靄がかる。空腹による体調不良でないことは明らかだ。そもそも最近は、仲間や十眞から世話を焼かれることも増え、そこまでの飢餓に陥ることはなくなっている。であれば単に不養生が原因なのだろう。なんということだ。体力にはそれなりに自信があるというのに。
 不幸中の幸い、今日は土曜だ。一晩横になっても改善の兆候がないので、俺は一日部屋に塞ぎこむことを決めた。その矢先の来訪者であった。

 ふらつく頭でなんとか扉を開けると、そこへ先に立っていたのはこの学生寮の管理人と、なんと十眞の姿だった。俺は驚いて言葉を失う。

「すみません。用が済んだらすぐにお暇します」
「あらいいんですよ。ご親戚の方がいてくれたほうがこちらも安心ですし」
「しんせき……?」

 よもや、熱に浮かされたせいで都合のいい幻でも見ているのか。我が目を疑う俺に、交わされるなごやかな会話が目の前のことが現実であることを示す。十眞が俺の部屋を訪れている。どうやらそこに間違いはないようだ。
 管理人の目は俺と十眞の間を往復する。来客者に問題がないことを判断したのだろう。一言挨拶を付け加えたあとは、すぐに玄関先を後にした。学生寮とはいえ、全面的に面会謝絶というわけではない。十眞は訪問のための正式な手順を踏んだらしい。手早く信頼を得るために少しの方便は使ったようだが。

「親戚って、一体なんて言ったんだ?」
「いいだろ、そこは」

 好奇心が沸き尋ねると、彼はぶっきらぼうにそれを突っぱねた。俺としてはかなり重要なことだと思うのだが、彼に答えるつもりがないのであれば仕方ない。

 十眞がこの部屋へ足を踏み入れるのは文化祭で俺が招いたとき以来だ。二回目ともなれば印象も変わるかと思えば、いつもの日常的空間に彼がいるのにはやはり浮き足立つような気になって落ち着かない。雑然とした、としか形用しようのない部屋に彼が立っている。それだけで俺は自分の体温がさらに何度か上昇していくのを感じていた。

「歩かせて悪かった。取り敢えず休め」

 見兼ねたように言って、十眞は俺を部屋の奥へと押し戻す。然して広くはない一人部屋だ。隅に敷きっぱなしの布団が玄関からでも目に入るはずだった。寝起き姿を恥じ入る隙もなく俺はそこへ押し込まれる。
 俺の胸には意図せず彼に会えた喜びと、それを不思議に思う気持ちが綯い交ぜ状態だ。俺が呼びつけたわけではない。寧ろ感染させてはいけないと、しばらく近付かないよう昨晩連絡したはずだったが。

「返信、見てないのか?」

 怪訝に十眞は首を数ミリ傾ける。そういえば。昨夜自分から連絡したっきり、そのまま力尽きていた。この訪問は突然のものではなく、どうやら彼からは事前に断りがあったようだ。俺は申し訳なくなり、反射的にスマホの所在を探そうとしたが、十眞の腕力によってまた布団へ逆戻りさせられた。

 はて、と布団の間から顔を出す俺に、十眞は「冷蔵庫を開ける」とだけ宣言すると両手に提げていたレジ袋から次々と物を詰め込んでいった。軽く二、三日分はありそうな量の食料や栄養剤が空きの目立つ冷蔵庫の中へどんどん収められていく。狭い間取りの部屋ではどこにいようと相手の様子が見て取れた。
 しばらく食料の移動を眺めて、そうか、彼は看病にやってきてくれたらしい。と俺は思い至る。

「有難いが、そんなに食べきれないぞ」
「……思ったより重症だな」

 見たままに感想を述べると、一層深刻そうな顔になった十眞がこちらに目を向けた。普段の俺はそこまで食い意地が張っているだろうか。ぼんやり考えているうちに、彼はやや性急に買ってきたものを収めきる。そしてペットボトルを片手に、俺が顔を覗かせている布団の近くまでやってきた。スポーツドリンクの青いラベルが目に付く。俺は半身起き上がり、それも有難く頂戴した。

 そう、間違いなく有難いことなのだが。発熱のせいか俺の思考はやや混線する。自身の不調に、こうして駆けつけられたことに困惑が拭えない。
 冷えたドリンクを一気に半分ほど飲み干すと、そんな頭の中も幾らかすっきりするようだった。一息つく俺の様子を眺める十眞の視線を近距離で感じる。彼は手狭な空間で少し窮屈そうに脚を折りたたんでいた。

「医者には行ったのか?」
「いや、熱はそれほど……」
「それ計ってもないのに言ってないよな?」

 呆れ声の指摘は、まあ図星であった。ひしひしと感じる非難のまなざしに俺は身が縮む想いだ。身体が弱っているときにこれは少し堪える。
 自分の選択の浅はかさを思い知らされたそのとき。彼の気配が動いた。気配と言ったのは、俺がそちらから目を離していたからだ。俯いた視界の先で狭しく畳まれていた彼の脚が崩され、膝を立てるのが僅かに見えた。身を乗り出して、拳ふたつ分ほど離れていた距離が縮められる。

 俺は俯いたまま首ひとつ動かせない。やや汗ばんだ額にかかる前髪を彼の指先が払ったとき、ふと思い起こされる記憶があった。

 はっきり思い出せるわけではなかったが、幼い頃にもこうして誰かに熱を測ってもらったことがある気がしたのだ。それはいつかに見た白昼夢かもしれない。そう思えてしまうほど朧気な記憶だ。
 発熱は正常な思考能力を奪う。のろのろと考えているうちに彼はこちらを覗き込むように顔を傾けた。いつもよりひんやりと感じられる彼の体温を至近距離で感じる。

「どうせ、体温計も持ってないんだろ。ほら」

 ……ああ、まあ。それもまた図星なのだが。
 ピントの合った視界で、彼の手の中にはいつの間にか新品の体温計が握られていた。俺が無言でそれを受け取るのを確認すると、十眞は接近した距離をまたあっさりと戻してしまう。

 病魔が齎す翳りというのは恐ろしく、俺は彼の厚意に対して、恩知らずにも自分の期待が裏切られたような気分でいっぱいだった。俺は、てっきり。

「おまえが額で熱を測ってくれるのかと」
「そんなんでちゃんと測れないだろ……」

 まったく彼の言う通りだ。しかし彼との触れあいの代わりがこの無機質な体温計では、落胆してしまうのも致し方ないのではないか。十眞の視線に促されては観念するしかない。俺はそれ以上は何も言い返さず、大人しく計測器を脇に突っ込んだ。計測中はなんとなく身体を動かしてはいけない気がしてそのまま黙り込む。

「食欲なくてもとりあえず何かは食えよ。あとは薬飲んで寝ること」

 ふと気掛かりになったのは彼が管理人としていた会話だ。用事が済めばすみやかに帰ると、確かに十眞はそう言った。持参してきた大荷物も全てしまい終えたいま、それはどうにも達成されてしまったように思える。それに気が付くと、いましがた自省したばかりだというのに俺の胸にはまた勝手な考えが沸いて出る。

「そんな顔するくらいなら最初から遠慮なんてするな」

 あわてて飲み込んだ想いは見透かされたらしい。再び、彼の呆れたかのような空気に俺は思わず目を瞠る。
 今回、俺が彼を頼らなかったのは遠慮したわけでも意地を張ったわけでもなかった。そもそもそんな手段があることに思いつかなかっただけなのだ。そんな言い訳は、続けられた十眞の言葉で霧散した。

「別に、都合が悪ければ俺だって断る。だから……、」

 そうは言うが、いざ俺が助けを求めたとして、彼ならどんな予定があれ上手く調整をつけてしまいそうなものだ。と思った。十眞は出来る男だ。そしてそれだけじゃなく、優しい。わざとつれないことを言って、こちらを気負わせないように振舞うのもその証左だった。

「来てくれて嬉しい。有難う十眞」

 不養生は俺自身の至らなさだ。至らなさとは悪しきことで、そんなことで迷惑をかけるわけにはいかない。凝り固まった考えはそう易々と払拭できそうもなかったが、素直に感謝を告げると彼は安心したように瞳を和らげるので。彼がそんな風に微笑むのなら悪くないと思えた。

 

「見てくれ、全快したぞ!」

 祐介が体調不良で伸びてしまってから二日後。彼はすっかり元気を取り戻したようで、長い腕を過剰に振り回して有り余る元気をアピールして見せた。

「確かに、もう大丈夫みたいだな」
「ああ。十眞のおかげだ」

 俺が零すとすかさず彼は大真面目に返してくる。病み上がりだろうに、こうして俺の家までわざわざ顔を見せにきてくれたのも、つい二日前に俺が寮まで出向いたことを気にしてのことだろう。祐介らしい義理堅さだ。実際、面と向かって元気な姿を見せられれば電話やチャットでやり取りするより、このほうが俺も彼の回復ぶりを実感できる。

 ひとまず、広くもない室内でこれ以上暴れるのはやめさせることにして。十分に伝わったと祐介を宥めれば彼は満足げになってソファへ腰を落ち着けた。折角健康体になったのに、こんなところで怪我をされても困る。

「けして大袈裟に言ってるんじゃないぞ」

 同じくソファに腰掛ける俺へ、彼は真に迫る顔つきで念押しを始めた。

「熱を下げるには汗をかくのがいいと言うだろう。思えば十眞が来てからは俺は嬉しさで発汗していた。いつもより治りが早かったのはそれが良かったのだろうな。だから俺がここまで回復したのはお前のおかげで、」
「……それはお前の免疫力のおかげじゃないか」
「そんなことはない!」

 大発見とばかりに目を輝かせて祐介は自論を展開する。こいつ、変な民間療法とか信じそうで危ないな。
 ともかく大事なのはいま祐介がいつもの調子でピンピンしていることだ。自分の行動にそこまで喜んでくれてるというのも、まあ別に悪い気分ではない。
 しかし曖昧に答えを返した俺を祐介は見逃さなかった。いつもより妙に高揚して見えるのは病み上がりのせいだろうか。

 隣に座る祐介を見遣る。彼は行儀良く背を伸ばしてから口を開いた。

「確かめてみてくれないか?」

 また妙なことが始まってしまった気配がする。経験則からくる予感に戸惑っているうちに、膝に置かれていた祐介の手が俺の掌を柔らかく包んだ。

「ほら、もうすっかり平温だろう」

 確かめるって、体温のことを言ってるのか? 呆気に取られ、黙ってしまった俺を祐介が追撃する。彼に引かれた俺の手は気付けば祐介の白い頬にまで誘導されてしまった。
 俺の片手を捕まえたままで、祐介は上機嫌だ。彼が主張するところの「俺のおかげで熱が下がった」というのを示そうとしているらしい。

「体温計やっただろ、ちゃんとそれで……」
「あれは置いてきた」

 何故かすっきりとした顔つきで祐介が言い放つ。これは、久々に歯止めが効かないときの祐介だ。病み上がりでハイになってるのか!?

「やはり、額同士でないと分からないものなのではないだろうか」

 純粋な好奇心と、それ以上に期待する目がちらちら向けられる。熱を出して大変なときには何も言わないくせに。
 だが、遠慮するなと言ったのはこっちだ。俺は抵抗をやめて腹を決めた。祐介の重ための前髪をかき分けて顔を近づける。睫毛がぶつかりそうな近さで瞳と目が合い続けるのは流石に気まずく、目を閉じた。そのまま額を触れさせてご希望通り検温を試みる。

 が、数秒経たないうちに、祐介の頭は離れて力なくソファへへたり込んだ。

「大変だ……、また熱が上がってきたかもしれない……」
「だから、こんな方法で分かるわけないんだって」

 祐介は虫の息だ。これで自分がいかに無茶な要求をしたか、よく分かったことだろう。
 根をあげている彼を放って、水でも取ってこようと席を立つ。僅かに熱る俺の頬にはおそらく気づかれていない。