6月4日(夕)

 事態が収束した。

 眼下にはあの異世界で最後に目にしたのと同じ、縮こまった老人の姿がある。かつての師はいまや唯一となってしまった弟子の前に頭を垂れていた。
 彼から発せられる力無い文句をただ聞き流していく。あれだけの醜悪さをまざまざ見せつけられたあとだからだろうか。どんな謝罪の文句も俺の心には響かなかった。しかし聞き手がどうであれ、然程関係はないらしい。老人の弱々しい懺悔は続く。終わりだ。終わってしまった。俺がこの手で終わらせたのだ。
 斑目の所業はけして許されない。それだけのことをやってきた報いとしては手緩いような気さえする。

 しばらく立ち尽くすだけの木偶に成り果てていると、斑目は取り巻きとともにどこかへ行ってしまった。記者会見がどうなどと言っていたような気もするが、いまはそれもどうだってよかった。
 斑目邸はすっかり余所者の顔で俺を包み込む。相変わらず絵筆を取る気にもなれないままだ。描けない、描かない生活というのはこうも息苦しいものか。変質してしまった自分への、先の見えない不安が襲いかかる。

(もう眠い。いまはただ、眠ってしまいたい)

 胸に迫るのはそんな原始的な欲求だった。それでもこの場所はもう俺の居場所ではない。見慣れた空間は俺を責め立てる。限界を、感じていた。

(……十眞)

 ふと、あの男の目の色を思い出す。
 依然として俺の中で深く印象に残っている。色素の薄い虹彩の色は、なんと名付ければいいだろうか。暗がりできらりと光ったあの色は。状況が状況だったためにしっかり観察することができなかったし、朝になってからは不粋なレンズが邪魔をしていた。
──もう一度確かめたい。そんな気持ちが湧き上がる。キャンバスのもとにあの色の再現ができれば、この八方塞がりから脱却できるきっかけになるのではないか、とさえ思えた。

 そうと決まればもう一度あの男に会うほかにない。しかし、俺は彼の連絡先を知らない。あの夜は身一つ以外は財布しか持っていなかったためだ。相手は社会人だ。いきなり家を訪ねたところですんなり会えるとも限らないが、待っていればそのうち現れるだろう。どうせ、このままここにいたところでなにもできはしないのだから。
 俺は一度訪れたきりの道を頼りに住処を飛び出した。

 

 

(──とはいえ、あてもなく待ち続けるというのは少々無謀であったか。)

 時期が冬でなくて良かった、というのがいまの俺の心境だ。兎田邸はマンションの一室にある。当然入り口前は共有スペースとなるのだが、入れ違いになっても困るため、その場でひたすら待機する。

 それからどれほど待っていただろう。疎らにやってくる通行人を何人か見送ったのち、ようやく目当ての人物から声がかかる。

「……忘れ物でもしたか?」

 兎田十眞だ。あの晩拾ったときと似た色合いのスーツに身を包んだ長身は俺の方へ屈んでみせる。格好は記憶のままだが、今日はあの日のような乱れ方をしていなかったので俺は少し安堵する。対する男はどこか気遣わしげにこちらを窺っていた。
 あちらからすれば俺がここにいることが不思議でならないのだろう。当然だ。無論、忘れ物をしたわけでもない。十眞は暫し考えるように閉口したが、躊躇ってみせたのはほんの数秒であとはすんなり俺を招き入れた。

 室内の様子はあの日となんら変わっていないようだった。十眞は俺を居間に通すとそのまま奥の部屋へ向かってしまった。部屋の中はすっきりと片付けられていて、座る場所には困らない。それでいて潔癖すぎるということもなく、むしろあちこちに彼の生活の跡が見て取れる。
 長椅子に腰掛けて大人しくしていると家主が戻ってきた。仕事着を脱いだ私服姿だ。その姿を見て、自分が制服のままであることを思い出す。己の惰性ぶりに、呆れられるだろうか、という危惧が生まれるが男はそんな素振りは見せず同じ長椅子に座る。ちょうどひと一人分ほどの距離を空けた十眞は言葉を迷っているようだった。俺は彼から声がかかるのをひたすら待った。

「えーと、祐介?」

 少々遠慮がちに十眞が切り出す。再会したばかりの男からすんなり自分の名前が出てくることが喜ばしく、心が上向く。

「何か用でもあったのか?」

 十眞の疑問は尤もだった。彼は素性の分からない俺と一定の距離を保ちながら、真っ直ぐに目線を送る。何か、と言われれば当然理由はある。あるのだが。はて。切迫した理由があったはずなのにそれが言葉になって出てこない。

「礼を、していないと思って」

 理由を掻き集めた結果、そんな言葉になってしまった。自分の言葉に違いなかったが、なにか違う気もする。しかしながら兎田十眞に一宿一飯の恩があることは事実だ。その恩義に相違があるはずもない。その後も快く湯を貸してくれただけでなく。

「替えの下着まで用意してくれたろう」
「それは……、うちコンビニすぐ近くだから」

 十眞はどこかばつが悪そうに応えた。こちらとしては大変助かったので、適切な判断だったと思うのだが。彼は咳払いをひとつすると調子を戻して言葉を続けた。

「俺が巻き込んだんだし、気負うことじゃない」
「だが、」

 どこまでも全うな物言いに俺は焦燥を覚えた。十眞の言い分では俺たちの間には貸し借りはないという。だがそれでは困るのだ。

(……一体なにが困ると言うんだ?)

 さっきからどうにも頭がうまく働かない。十眞の表情が近付く。状況を見るに、どうやら俺の方が近付いたらしい。くらりと血の気が引いていく俺の上半身を十眞はとっさに支えてみせた。

「祐介?」

 十眞の声がいやに近くから聞こえる。今夜は6月だというのに少し冷える。今が一体何時なのか分からないが、随分長いこと外で待っていたことも確かだ。身体は存外冷え切っており、なにが言いたいかと言うと、つまり。

「お前、寝れてないのか?」

 つまり……、猛烈に眠い。
 俺は沈黙で以って応えた。薄ぼやけた視界で男前が困惑に眉を寄せる。困惑しながらも俺を支える腕はそのままだ。

「分かった。用件ならまたゆっくり聞くから、今日はもう帰れ」

 それが十眞の提示し得る最大限の譲歩であることは寝ぼけ眼の中でもよく分かった。

「帰る……?」

 彼は俺のことを何も知らない。だからそれが一般常識に基づく提案であることも重々理解することができる。こんなことを思うのはあまりに身勝手だ。身勝手ながら思ってしまう。──そんな突っぱねるような言い方しなくてもいいじゃないか、と。

「ない。帰る場所も、安眠できる場所も」

 朦朧とした形の言葉を吐くと、十眞の背がギクリと震えた。

 その確かな動揺を目に入れたが最後、俺の意識は沈んでいった。

 つまり。つまり……、俺は何をしに来たんだったか?